満願寺の歴史について

兵庫県川西市満願寺町にある当山は奈良時代に開創され、長い歴史が刻まれた由緒ある寺院です。周囲は山に囲まれ自然環境に恵まれた地に建っています。
ここに大慈大悲の千手観世音菩薩をはじめ多くの古えからの仏様をお祀りして、時代とともに歩んで参りました。弘法大師空海上人のおしえを奉じた真言宗寺院として皆様に親しまれています。
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神秀山

日本神話(『日本書紀』『古事記』)に登場する神素戔嗚尊(スサノオノミコト)が大昔、高天原において乱行多く、ついには出雲の国に追放なるとき、「この地に降臨し給ふ由縁をもって、神秀山と称しまた大慈悲の霊場なる故に千手院と号する」と『摂陽群談』巻十四に載せられています。
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願いが叶う満願寺

『伽藍開基記』によると創建は、奈良時代(神亀年間724~728)、「信者すべての願いは必ず聞き届けるという満願の仏の功徳をもって大衆を救おう」と発願されました。そして全国に満願寺建設をすすめられた聖武天皇(第45代天皇)の命により、勝道上人(諸国に満願寺を建立した)が摂津国の満願寺として千手観音を本尊に開基したと伝えられています。のちの安和元年(968)源満仲が多田に館を構えて以来、国家安泰を祈って帰依し、源氏一門の祈願所になりました。
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勅願寺

鎌倉時代(正中二年(1325)五月二六日付)の後醍醐天皇(第96代天皇)の勅旨によって当山は勅願寺となりました。以後足利幕府成立ののち、将軍家の祈願所として保護を受け栄え寺運が盛んな頃は四十九の院坊があったと伝えられています。

当時の文書によれば、建武五年(1338 )二月、足利尊氏は満願寺衆徒中にあてて祈願を命じており、また同年三月、仁木義有が伝達した禁制にも「当家(足利氏)代々祈願所たるうえは寺中ならびに寺領に対する権門を禁止する」と記しています。その後、兵火による消失などの変遷をへて、明治初年残った唯一の子院「円覚院」を本坊として現在に至ります。
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本尊と開創縁起


神亀元年(724)の春、比叡山のふもとを流れる絹川の上流から、毎夜不可思議な光が琵琶湖の西岸白鬚明神のあたりの湖面を照らしていました。
光の源を探し求めて山中に入った六氏(荒木・井口・江口・坂本・佐伯・富田)は洞窟で一体の仏像を見つけました。
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岩上に拝したところ、それは千手観音菩薩でした。一行は千手観音菩薩をお守りしながら、夢のお告げに従って、はるばる摂津国の栄根に移してお祀りしました。
ところがある雪の夜、突然千手観音菩薩の姿がみえなくなりました。
たずねまわったところ、栄根より北西の山中(満願寺奥の院の地)の岩上に立っておられたのでここに手厚くお祀りすることになったのです。
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そのころ聖武天皇の発願を受け、諸国に満願寺を建立されていた勝道上人は霊感を得て、この地に千手観音を祀る伽藍を建て、摂津の国の満願寺として開創したと伝えられています。
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伽藍とは、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味するようになりました。


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満願寺と関係の深い歴史上の人物


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勝道上人(しょうどうじょうにん)


725年4月21日、下野国芳賀郡に生まれる。
父は下野国府(しもつけこくふ)の役人、若田高藤(わかた たかふじ)と国府の神主である吉田主典(よしださかん)の娘、明寿(みょうじゅ)の一子。幼名は藤糸。後の勝道上人。
西暦752年、華やかなりし頃の奈良時代とは裏腹に疫病の流行や農作物が十分に実らず、食物が欠乏して人々が飢え苦しみ、また地震など天変地異に見舞われるなどの災難が相次いでいました。庶民は救いを求め、私度僧である聖や行者の説く仏法に群がり心酔しました。ちょうどその頃、藤糸は下野国を見渡せる山、大剣峰で6年間の荒行を経て、日本三戒壇(戒を与え正式な僧侶となる許可所)に授戒を受けるために下野国の薬師寺に現れたのは27歳の春でした。
藤糸は、そこで鑑真和上(がんじんわじょう)と共に唐より渡来した如宝(にょほう)という僧に出会いました。如宝(にょほう)は、藤糸の風貌を一目見て「素晴らしい」と言い駆け寄って行ったといいます。藤糸はすぐに「沙弥十戒」「七十二威儀」を授けられ正式に僧籍に入り名を厳朝(げんちょう)と改めました。
厳朝(げんちょう)は、経典、建築、彫刻、医療などの勉学に勤しみましたが、「苦の世を生きる万民の苦しんだ魂をいかにして救うか」の悟りがどうしても開けず、虚空蔵求聞持法という百日の行を決意しました。この行は水と少しの穀物だけを食べて行う百日間の荒行であり死に至ることがあります。しかし、厳朝(げんちょう)は見事に百日の行を満願成就し、都に行くよりも勝る「魂を導く」という自分の在るべき道を見いだしました。
その翌年、厳朝(げんちょう)という名から「勝道(しょうどう)と改め、十人の弟子と共に「魂を導く道を求め」二荒山(ふたらさん)へと旅立ちました。しかし、岩肌を登り、道中の山に住む者から敵国と間違われるなど想像を絶するような実に険しい道のりでした。そして二荒山(ふたらさん)山頂目前にして吹雪のために第一次登攀(とはん)は失敗に終わりました。
第一次登攀(とはん)の失敗から三年後、勝道一行は再び二荒山へと旅立ちました。しかし二荒山頂上まであと2時間というところで、不吉な予感が走った勝道(しょうどう)は戦の煙を見つけ下山。またもや第二次登攀(とはん)も失敗に終わりました。
そして三度目の登攀(とはん)で再出発を試みた時は第一次登攀(とはん)から、15年の月日が経っていました。度重なる苦境を乗り越え第三次登攀(とはん)で、勝道一行は一人の脱落者を出さず、人跡未踏であった二荒山(ふたらさん)の絶頂を極めました。勝道上人48歳の春でした。勝道上人は弟子と共に二荒山連山(日光山連山)を開山。その後、日本有数の霊場を開きました。聖武天皇の命を受けて、諸国に満願寺を建立され、勝道上人は満願上人と呼ばれていたこともありました。
金堂にお祀りしている「開眼阿弥陀如来」は、当山を開いた勝道上人の一刀三礼(一度刻んでは三回礼拝すること)の作と伝えられております。また「魂を導く道を求め」神秀山 満願寺を開創された勝道上人の座像は現在、毘沙門天堂にお祀りしています。勝道上人の事跡は弘法大師作「性霊集」の中の「二荒山(ふたらさん)碑文」に書かれています。
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源 頼光(みなもと の よりみつ)

天暦2年(948年)に生まれました。
平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍 源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。満仲の長子で清和源氏の3代目になります。
満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれていました。
異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。
頼光は満仲と同じように摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職で財力を蓄えました。
寛仁元年(1018年)3月、頼光は大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王ら、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、藤原保昌などの強者の家臣の6人とともに摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行います。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書が残されています。

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坂田金時(さかたきんとき)

動物とたわむれる姿が童話や童謡で有名な金太郎にはいくつも伝説が存在します。 そんな金太郎は天暦10年(956年)5月に生まれました。金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育ちました。
そんな金太郎に転機が訪れたのは天延4年3月21 日(976年4月28日)。金太郎は足柄峠にさしかかった源頼光と出会いました。そこで金太郎の力量が認められ頼光の家来となりました。その後、金太郎から坂田金時(きんとき)という名に改名し、源頼光と共に京にのぼり頼光四天王の一人になりました。
ちょうどその頃、丹波の国の大江山(現在も京都府福知山市)に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)が都に現れては悪いことをして民衆を困らせていました。
寛仁元年(1018年)3月、源頼光と四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、藤原保昌などの強者の家臣)たちは酒呑童子を退治するために大江山に向かいました。源頼光と四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、藤原保昌などの強者の家臣)たちは山伏に身をかえ神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って酒呑童子を退治し無事、最大のミッションを終えました。
寛弘8年12月15日(1012年1月11日)九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かった坂田金時ですが道中、作州路美作(みまさか)勝田荘(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去してしまいました。享年55才でした。
坂田金時の幼少時の姿は、鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルになり、丈夫に育つ男の子のシンボルとして、今もなお日本中に親しまれています。
神秀山 満願寺では毎年5月5日の子供の日に、子供の「成長」と「成功成就」をお授けする金時まつりを行います。

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美女丸(びじょまる))

美女丸伝説

平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍 源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。
今からおよそ一千年前、源満仲の多田源氏と呼ばれる武士たちが摂津の国の北部を支配していました。その武士たちを率いる源満仲の末子、美女丸(または美丈丸)は素行が悪く、人の忠告を聞こうとしませんでした。見かねた父、源満仲は美女丸を寺へ預け、僧になるための修業をさせることにしました。
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時が流れ、父満仲は十五才になった美女丸を呼び寄せ、修業について尋ねました。しかし、気の向くままの生活をしていた美女丸は、和歌や管弦はもとより経文も読むことができなかったのです。怒った満仲は、家臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるように申しつけました。
驚いた仲光でしたが、主君の子の首をはねることがどうしてもできません。困り果てた仲光は、「私を身代わりに」と命を差し出す我が子の幸寿丸の首を断腸の思いでかきとり、満仲に差し出しました。そして家臣の藤原仲光は美女丸をひそかに逃がしたのです。
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後に仲光の息子、幸寿丸が自分の身代わりになってこの世を去ったことを知った美女丸は、悔い改めて比叡山に向かいます。比叡山に出家した美女丸は、荒行に励み、やがて源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)という高僧になりました。ある時、師の源信僧都(平安時代中期の天台宗の僧)に伴われて当山(神秀山 満願寺)を訪れた源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)は、年老いた源満仲と母公に再会し、自分が美女丸であることを明かしました。驚き喜ぶ母でしたが、その両目はすでに見えなくなっていました。
それを知った源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)は当山に留まり、阿弥陀如来に誓願をかけ、「母の眼病平癒させ給へ」と丹誠こめて念じました。そして7日満願の暁には、母公の両目が全快するという奇跡が起こりました。
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ますます信心を深めた母公は、源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)のために円覚院(現在の本坊)を建立します。このときから金堂にお祀りしている阿弥陀如来像は「開眼阿弥陀如来」と呼ばれるようになり、眼の病の回復を願う人々が祈願するようになりました。
この仏像は、当山を開いた勝道上人の一刀三礼(一度刻んでは三回礼拝すること)の作と伝えられております。
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また謡曲「仲光」 「美女丸伝説」は、室町時代に能に脚色されています。曲の名は、観世・梅若流では「仲光」、ほかでは「満仲」といい、古くは「美女御前」ともいわれました。仲光が主人公となって物語が繰り広げられる「美女丸伝説」は主従関係の重みと、仲光の心の葛藤を見事に描いた作品であり、中世の世界を切り開いた武士の倫理の厳しさもよく表現され、多くの観客の涙を誘ってきました。

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